2006年07月16日23:58

大山幸子さんが12日亡くなった。
57歳だった。
難病にかかりながら、前向きに生きてきた彼女に私はどんなに
力づけられてきたことか。。。。
大山さんとは、10数年から一緒に様々な活動をしてきた。
95年、北京で開かれた世界女性会議NGOフォーラムも一緒に
行った。いつも、大山さんは未熟な私に多くのことを教えてくれた。
彼女の行動力、リーダーシップに、ぜひ次期市議会議員にという声が仲間たちの間で
あがっていた。
彼女が出馬するなら、私は一生懸命応援しようと密かに心に決めていた。
ところが、突然彼女は脊髄小脳変性症という難病に。
心の中では、相当なショックがあっただろうが、彼女は私たちには
動揺したところを少しも見せはしなかった。いつもユーモア絶やさずに、
さわやかに病に向かいあっていた。
その後、彼女は難病の当事者としての活動を続け、難病の当事者と家族の会を
つくった。
難病の当事者として、議員に立候補したいとも話をしてくれた。
足が不自由になっても、口がうまく回らなくなっても、最後まで彼女は前向きに
一生懸命生きてきた。
会うたびに私に
「あんた、何やってるのよ。しっかりしなよ」とハッパかけられた。
そう言う彼女はもういない。
まだ、早すぎる。
ご冥福をお祈りいたします。
大山幸子さんを偲ぶ≫
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大山幸子さんが12日亡くなった。
57歳だった。
難病にかかりながら、前向きに生きてきた彼女に私はどんなに
力づけられてきたことか。。。。
大山さんとは、10数年から一緒に様々な活動をしてきた。
95年、北京で開かれた世界女性会議NGOフォーラムも一緒に
行った。いつも、大山さんは未熟な私に多くのことを教えてくれた。
彼女の行動力、リーダーシップに、ぜひ次期市議会議員にという声が仲間たちの間で
あがっていた。
彼女が出馬するなら、私は一生懸命応援しようと密かに心に決めていた。
ところが、突然彼女は脊髄小脳変性症という難病に。
心の中では、相当なショックがあっただろうが、彼女は私たちには
動揺したところを少しも見せはしなかった。いつもユーモア絶やさずに、
さわやかに病に向かいあっていた。
その後、彼女は難病の当事者としての活動を続け、難病の当事者と家族の会を
つくった。
難病の当事者として、議員に立候補したいとも話をしてくれた。
足が不自由になっても、口がうまく回らなくなっても、最後まで彼女は前向きに
一生懸命生きてきた。
会うたびに私に
「あんた、何やってるのよ。しっかりしなよ」とハッパかけられた。
そう言う彼女はもういない。
まだ、早すぎる。
ご冥福をお祈りいたします。